反出生主義と極端さ、道徳との付き合い方

反出生主義における三つの実践的不可能性と「無限責任」の問題――心情から読み解く〈信頼〉の不在とその行方|上柿崇英(T. Uegaki)

・諸々の目的ごとの利益

将棋のプレイ中、どのような手を指せば勝ちにつながるのか考えるだろう。また、「子供を生むとしたらどんな育て方をするのがよいだろうか、どんな準備をしておくのがよいだろうか」と考えることもあるだろう(それは子供を生むこと自体に利益があるかと直接は関係ない)。あるゲームに勝つために時間をかけたり、自分の資質を注ぎ込むのは、他のゲームを楽しむための余裕をなくすかもしれない。(たった一つの趣味のために人生を捧げるのは馬鹿げていると思われることもある。)

・範囲の広さ

 ”想像してみてほしい。登山の喜びは道中の疲労があるからこそ味わうことができる。勝利の充実感は仲間との不和や諍いを乗り越えて手にしたときほど深くなろう。ところが時間が経過していくと、喜びや充実感は薄らいでいき、かえってその記憶の存在が新たな苦痛の種になることもあるのである。このことが示すのは、人間的な生における「苦痛」のすべてが、歯痛や拷問のように単純明確なものではないということ、その大半は出来事として経験される全体のごく一側面であって、その一部だけを特定して取り除くことはできないということである。”

あることの全体を見て、それがよい(喜ばしい、快い)ことであるかどうかは、そのことが継続している期間の瞬間的な快苦の総和によっては決まらない。違う次元の話。ただ、高次の利益と害について考えても(その次元での)快苦の非対称性は成立する。「人生に害があるとしても、全体的に見ればよいものだ」という考えが成立するとしても、出生を奨励する(非存在が悪いと言う)ことはできない。ただし、「全ての出生が悪い」と全面的に、無条件に言うこともできなくなる。(少なくとも、快苦と剥奪だけを判断材料とするなら)

 

・本文

ある目的が達成できず、苦しんでいる人が、「そもそも○○をしなければその苦痛はない」という言説に救われることはあり得る。そんな言説がなくとも、ただ勝手にやめればいいだけのこともある。その違いは何か。まず、その行為が独立していること(他の行為の手段や一部になっていないこと)。食事や生殖が社会生活の一部としてのみ扱われているとき、その行為自体の善悪について考えることは難しいだろう(そもそも社会生活や慣習全体の暴力性について問うことが先に必要になる)。次に、(ある意味でそれをするかどうかについて選択の自由はあるが)賞賛・推奨され、価値のあるものとして扱われていること。

”苦痛の除去も、完全な選択も、完全な自立もありえない生の不可能性を前提として、それでもより良く生きるとは何か”を問うとしても反出生主義を選択することはあり得る。殺人や暴力をなくすことが不可能だとしてもそれをなるべく防ごうとすることは普通に行われているからだ。主張の内容や方法は問題ではなく、どれだけそれを絶対視するかが問題だと思う。

新しい道徳を、単なる肌感覚を超えて、道徳的な主義として確立するための方法は、ある前提を極端に、頑固に推し進める以外にあるだろうか?”負い目と残酷さとを否定することなく、それでも前を向いて、一人一人がより良き生を引き受けて”いく中で反出生主義を生み出す可能だろうか?負い目と残酷さとを否定することなく殺人を否定することは可能なのだろうか?記事中で口減らしのあった時代について触れられている。その時代に比べ、現代では殺人が極端に、潔癖症的に禁止されているのではないだろうか?〈信頼〉のある世界とはつまり、殺された命に感謝はしても殺人を過度に悲劇と捉えない世界であり、反殺人主義とも呼べそうな、一人一人の命や人生を重視するものが流行したのと同時に、〈信頼〉なき世界、反出生主義の土壌は生まれていたのではないか?

また、反出生主義が生まれる過程で一旦極端さが必要になるとしよう。しかし、「殺人は絶対に悪い」という(極端な)言葉にほどほどに従うことが可能なのと同じ様に、(反出生主義に完全に従うことが不可能でも前を向いて、一人一人がよりより良き生を引き受けて行く中で、反出生主義は無理だと開き直ることなく、)反出生主義とうまく付き合っていくことは可能なんじゃないだろうか?

 

 

 

 

 

 

観た、読んだ、きくもの歴(いま書けるもの)

自分の中で、イメージが動かないだろうもの まだ最後まで行ってないかもしれないです 細かい表記が間違っているかもしれません、すみません

ジュディマリ rites of spring fly the voodoo skies

おはなしして子ちゃん ピエタとトランジ〈完全版〉 ドレス 来世の記憶 車輪の下 青木きららのちょっとした冒険 仮面の告白 ダレン・シャン ハンターハンター 幽遊白書 ことり コルサタル短編集 ペドロ・パラモ ライ麦畑でつかまえて フラニーとズーイ 相対主義の極北 ドゥルーズ_内在の形而上学

悪魔と裏切り者 ワンピース NARUTO ファイナルガール いやしい鳥 爪と目 私は幽霊を見ない パトロネ 高橋留美子 コンビニ人間 教育 浮游 破局 あこがれ 改良 かか 空港にて 人間本性論(一巻) しろいろのまちの、その骨の体温の 消滅世界 ハコフネ 文鳥、夢十夜 経験論と主体性 不安の概念 さい果て 綿・幼き合唱 暴力と証し ブラームスはお好き ギンイロノウタ 坊っちゃん 悪童日記 孤独な散歩者の夢想 動きすぎてはいけない カルメン 聖火 共喰い 1R1分34秒 ぼくはきっとやさしい 地球星人 春の雪 ニムロッド スクラップ・アンド・ビルド 火花 走ル メタモルフォシス 太陽の季節 砂の女 じゃりン子チエ モロイ

冬の旅 チタン 給料日 3つの鍵 ポニョ 風立ちぬ アベセデール いまを生きる 自由への闘い 小さな恋のメロディ 8月の家族たち 四季の物語_春

東京

https://note.com/kawamura_55/n/n1c9132f74647

子供じゃないんだからそこで何をするのか考えようよ、行き来について考えようよ、といった感じのことを書くつもりだったんだけど、無理になったからやめた

僕は、コンビニ人間好きです。ドキュメント72時間も。東京も「全面的に嫌い」とかじゃないです。(ほとんどの場所に行ったことないけど)ただ、東京に土着の文化とかあったら気持ち悪いと思います。まあ、探したらあるんでしょうけど。あんまり考えたくない。街について話すのが好きじゃない。当然自分についても。聞かれたら答えるけど。東京について話す権利があるのって誰なんだろう。引っ越してきたばっかりの人とか。東京を無視するのも東京主義者とか。それももう何回聞いたかわからないからここまでセット。どこで聞いたのか知らないけど。窮屈だと思うことはあるけどそれも誰かの感想かもしれない。でもいろいろ詰め込みすぎだろうと思うことはある。東京の人が温かかったら嬉しいと思ってくれるかな。東京の生活史持ってますよ。ちょっと読みました。僕は結局、東京の人がどうするべきなのか、東京の人から聞いたことない気がします。東京がどうあるべきか、とかも。疲れた。終わります。

『哲学の教科書』注中『経験論と主体性』(邦訳)のページ数

私が今読んでいるのは、

『哲学の教科書-ドゥルーズ初期』ジル・ドゥルーズ 編著、加賀野井秀一 訳注、河出書房新社、二〇一〇年

河出文庫 ト6-14 「本書は一九九八年に夏目書房より刊行された『ドゥルーズ初期』を改題の上、文庫化したものです。」

 

私は次の本を持っています。

『経験論と主体性-ヒュームにおける人間的自然についての試論』ジル・ドゥルーズ 著、木田元・財津理 訳、河出書房新社、2000年

「本書は一九八〇年、朝日出版社より刊行されたものを改題・改訳した。」

 

『哲学の教科書』には『経験論と主体性』からの引用があり、その箇所の原著と邦訳でのページ数が注に示されています。注に示されている邦訳のページ数が一九八〇年(朝日出版社)版のもので、2000年版のページ数があると便利なので、わかっている対応するページ?を書きます

 

(注番号,原著ページ数,2000年版邦訳ページ数)

注15 109,154

注17  32,46

注18 135,190

 

追加していくつもりです。間違ってたらすみません。

興味あること、読みたい本

自分の興味関心縛るのよくないかなーと思ってたけど自分は縛ろうとしても気付いたら気が散ってるとわかったのでとりあえず何考えるか決めます
読みたい本をぜんぜん読んでない 読みたい本として出されてるのを読んだことがあって、面白かったやつとかあったら教えてください それを優先的に読むかもしれない

大きく分けたら宗教、文体、自由 みたいな感じになるんですかね?
・宗教
とりあえずキルケゴール 東洋思想で清水高志さんいつか読みたいけどこれはそのうち
ヒュームの宗教論全般 熱狂?にどう向き合えばいいのかわからない 日常の本
祈りというのが行為寄りだと思ったのでそれに関係ある話とか 「文字通りには非現実的で不可能に思える祈り」って何が言いたいのかわからないんですけど 理想の話だと思います その言葉が(普段)どう使われてるのか というところから無意味な使い方をしてる文かどうか考えられると思うんですけど、それでもその言葉を使ってしか表せないことはある ただ無意味な表現とは何が違うのか? 語りえぬものを語る(野矢) 鏡の国シリーズとか あとパスカル、パンセ
・どこから文体の話?
ルソー(とロマン主義)の文体の話 人称と時制について、藤野可織さんについての批評?とかがあれば
問い方が何を考えさせるのかにも興味あります! 問いを問う(入不二) ドゥルーズは問題の話してるらしい
・自由
ドゥルーズってなんでガタリ選んだんですか? ドゥルーズ初期の制度論
スピノザ
・小説
ドストエフスキー サリンジャー(ナイン・ストーリーズ)  三島由紀夫(豊穣の海)  ベケットは三部作?を途中まで読んでて読みたいけど今すぐじゃなくていい
・会話
会話ってどうやるのかよくわからない

・ルソー

東浩紀さんとか?

・これ以降は適当に追加していきます

「悪魔と裏切者: ルソーとヒューム 」「ヒューム読本」

願望の方向(?)(サプライズプレゼント)

願望を叶えるのは、相手を喜ばせられるから良いことだ
それだけ? 死後も約束は守ってほしい/守るべき 自分を犠牲にして願いを叶えることもできる
願いが叶ったことを知る必要はないこともある
未来への願望は叶った場所に願った人がいない場合があるが、過去への願望/未来からの願望はそのような場合があるか?「これは今こうなってるけど、もしああだったらよかったのに」という形の願望は願った人に影響を与えずに叶えることはできない 「過去にもしかするとああいうことがあったかもしれない、あったかわからないが、あったらよい」という願望を叶えることはできる

願望を叶えることのよさは快苦だけの問題ではない ということを示すために叶ってもその人自身には変化がない願いの例を出そうとしていましたが、快苦と関係ない願いはそれだけではありませんでした
ここまでは「叶っていたら叶っている私も叶った場所の私も嬉しい」という願いしか想定していなかったが、私は私の不幸を(他人から見て可哀想なのではなく、実際に苦しむことを)望むことも可能だ
このような話題ではよくタバコの例が出されるが、あれはおそらくタバコを吸っていたほうが本人にとっても幸せというだけの話で、自己決定そのものの重要さは見えてこないと思う もっと愚かな願いはないだろうか 私の人格を変えてしまうのはどうだろうか それは他人と変わらないんじゃないか 自己決定の「自己」と他人の重要な違いはなんなんですか
どんなに愚かな、もしくは悪い願いであっても、それが叶うことは願った私だけではなく叶った所の私にも(少しは)良いことのように思える(具体例がありません)
これは邪魔されることに「私が尊重されていない、大事にされていない」と感じるからではないのか? 自身を苦しめようと罠を仕掛ける。他人が撤去しなくても私が罠に引っかかるとは限らない。この場合でも私の願いは叶ったほうが良いのか?
アタシはみんなの願いを叶えてやりてェよ!意思継ぎてぇよ!
通常は 私たちは私たちの願いが叶うことを願い合っているんじゃないのか?