反生存主義紹介

https://dhume3.hatenadiary.jp/entry/2022/10/11/002133

以前作った記事を読み返したらわかりにくかったのでリベンジ
反生存主義とは、人が存在する事自体を悪とし、人々が生き延びることを不道徳だとする信念。生存行為は生かされる(未来の)存在への暴力・今生きている人のエゴであるとし、生かされること及び生き延びることを否定的に価値づける倫理的見解。
この記事で扱う反出生主義はベネター型?です 反生存主義の前提は生存行為をしないことで、自殺をすべきという見解ではありません
https://antinatalisthandbook.org/languages/japanese
反生存主義版#2 私が生存しないと私は死亡してしまう。私の保存のために生存すべきだ!
これには反出生主義版#2と同じように反論できるだろう
#17は、(反生存主義を受け入れない)反出生主義者と反生存主義者が対決する時最大の論点になると考えられる部分だ
「ある者の存在の開始を防ぐことと、すでに存在している者の存在を止めることの違いだ。ある者が何らかの理由で生まれてしまえば、状況は生まれる前とは全く違うものになる。」 本当にそうだろうか?
既に生まれているのはこれまでのある者で、未来のある者はまだ主観も何も持っていないのではないか?
つまり、現在の私が食事などをして死亡するまでの時間を延ばしたとき、私を生み出していると言うことができるのではないか?
「ある者」を生み出しているのは確かに出産によってだろう。それは最初から「ある者」という個体(生きてから死ぬまで、人生)のスケール考えているからであって、そのスケールを選ぶ必然性はない。 私が今生きている原因は過去の私が生き延びるような選択をしたからでもあり、親が産んだからでもあり、人類が生まれたからでもあり、地球や、宇宙が生まれたからでもあると言える。
確かに今は個体で考えるような倫理観が流行っている。ある者が犯した罪はその者が責任を問われる。しかし「流行っている」で言えば出生肯定が流行っているんじゃないだろうか。どこまで根本的に考えるかという話だろうか。
私が私に危害を与えることは許される。それは私が私に危害を加えるような行為も制限すると今の私に苦痛を与えてしまって、結局未来の私も苦痛を受けるからではないか。
「剥奪」もそのままではスケールの問題になる。前後で比べるのではなく、剥奪が発生しなかった場合と発生した場合で比べるべきだろう。