願望の方向(?)(サプライズプレゼント)

願望を叶えるのは、相手を喜ばせられるから良いことだ
それだけ? 死後も約束は守ってほしい/守るべき 自分を犠牲にして願いを叶えることもできる
願いが叶ったことを知る必要はないこともある
未来への願望は叶った場所に願った人がいない場合があるが、過去への願望/未来からの願望はそのような場合があるか?「これは今こうなってるけど、もしああだったらよかったのに」という形の願望は願った人に影響を与えずに叶えることはできない 「過去にもしかするとああいうことがあったかもしれない、あったかわからないが、あったらよい」という願望を叶えることはできる

願望を叶えることのよさは快苦だけの問題ではない ということを示すために叶ってもその人自身には変化がない願いの例を出そうとしていましたが、快苦と関係ない願いはそれだけではありませんでした
ここまでは「叶っていたら叶っている私も叶った場所の私も嬉しい」という願いしか想定していなかったが、私は私の不幸を(他人から見て可哀想なのではなく、実際に苦しむことを)望むことも可能だ
このような話題ではよくタバコの例が出されるが、あれはおそらくタバコを吸っていたほうが本人にとっても幸せというだけの話で、自己決定そのものの重要さは見えてこないと思う もっと愚かな願いはないだろうか 私の人格を変えてしまうのはどうだろうか それは他人と変わらないんじゃないか 自己決定の「自己」と他人の重要な違いはなんなんですか
どんなに愚かな、もしくは悪い願いであっても、それが叶うことは願った私だけではなく叶った所の私にも(少しは)良いことのように思える(具体例がありません)
これは邪魔されることに「私が尊重されていない、大事にされていない」と感じるからではないのか? 自身を苦しめようと罠を仕掛ける。他人が撤去しなくても私が罠に引っかかるとは限らない。この場合でも私の願いは叶ったほうが良いのか?
アタシはみんなの願いを叶えてやりてェよ!意思継ぎてぇよ!
通常は 私たちは私たちの願いが叶うことを願い合っているんじゃないのか?